いつもと違う時間帯にスーパーに行ったら、結構混んでいた。俺の並んでるレジの列がなかなか進まんな、と思ったら、レジにつながってる自動精算機(レジには店員さんがいるけど、支払いだけを自動精算機で行う)2台の内、1台でおじいちゃんがゆっくりゆっくり精算している。もう一方の精算機がどんどん回転して、俺が精算し終わって袋詰め台に移ってもまだ精算している。
その内精算機でエラー音が鳴った。振り返って見たら、レジの店員さんが身をひるがえしてノールックでおじいちゃんの精算機のタッチパネルをピッピッと操作し、戻っていった。店員さんもおじいちゃんも一言も口にしない。目線を合わせることすらせず、どちらも何事もなかったかのように落ち着きはらっていた。
これ、「よくあるエラーを無造作に復旧した店員さん」と「何が起きたかよくわかってないおじいちゃん」の間の没コミュニケーションのようにも見えるけど、一方で「いつも同じエラーを起こすことも踏まえた上での常連おじいちゃんに対する手慣れた対応をする店員さん」と「いつも同じエラーが起こるのでもはやエラーとも思ってないおじいちゃん」の常連間の人間的コミュニケーションのようにも見えたんだよな。
「いつもの」と発言するまでもなく、いつもの酒がいつもの飲み方で出てくるバーみたいな感じ。
俺が袋詰めを終えて、店を出ていくぐらいのタイミングで、おじいちゃんは何事もなかったかのように精算を終えていた。
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出力とタイマーが壊れて、ほっといたら直った電子レンジがまた壊れた。また出力とタイマーが調整できなくなった。
でも2回目なのでもう慌てない。加熱したい時間をスマホのタイマーで計ればいいだけだ。前と同じ対処で問題ない。
だいたい、電子レンジが壊れたこと自体、以前にも聞いた微妙な異音ですぐに気づけた。ある意味、俺と電子レンジのコミュニケーションはバッチリだ。連携に何の支障もない。
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昨日、仏教学じゃなくてもっと実践的な仏教の本を読んでたんだけど、電子レンジぶん殴るのって仏教的にはダメなんだろうか。人や動物をぶん殴るのはアウトだけど、物だよ。
ウチの電子レンジはコンピューター入ってなさそうな機械っぽいシンプル電子レンジなので、昔のテレビみたいにぶん殴れば直りそうな気もするんだよな。異音ってのも「ダイヤル式タイマーのゼンマイがちょっと調子悪い」みたいなカタカタ音が出てるだけなんだよ。うまいこと殴ればカチッとはまって元に戻りそうなのだ。
片づけの仕方ひとつとっても、自我を入れないとうまくいくのです。
――たとえば、どういうことですか?
たとえを挙げてみましょう。
何かを動かす時、「この物が、どこに置かれたいか」「このコップはどこに置かれたいと思っているのだろうか」と、物の気持ちになって動かしてみるのです。
「自分が」物を片づけようとするのではありません。
主語は自分ではなくて、物です。
アルボムッレ・スマナサーラ『スマナサーラ長老が道元禅師を読む』
電子レンジがぶん殴られたいと思ってはないと思うけど、ちょっと部品がズレてるだけだと思うんだよな。本当ならていねいに分解してあるべきところにはめ込むべきなんだろうけど、素人に迂闊に「外科手術してほしい」とも思わないだろう。ちょうどおじいちゃんが肩たたきされるようなもんだよ。外装が丈夫だから「ぶん殴る」格好になってしまうだけで。
まぁ、物の側の問題はクリアできたとしても、自分自身の問題としてはどうか。上の本では徹頭徹尾、自身の問題を自身の問題として引き受けよという話をしている。たとえ対象が「物」だとしても「ぶん殴る」行為が自分を損なうことになるのではないか。
機械と仏教に詳しい識者の導きを受けたい。


