4月1日ファクトチェック日記

4月1日はエイプリルフールとのことで、日記にもウソの情報が混ざることが懸念される。本日は日記の内容をきちんとファクトチェックした上で公開することにしたい。

なお、ファクトチェックの基準は、認定NPO法人ファクトチェック・イニシアティブのレーティング基準に従った。

朝、出勤しようと服を手に取ったら、ポケットから龍角散タブレットの開封済みパッケージが出てきた。どうやら一緒に洗濯してしまったらしい。

→正確。パッケージ内に溶け残った龍角散タブレットが残留していた。

龍角散まみれの服では出勤できない。仕方がないので全裸で電車に乗った。

→誤り。別の服を着て出勤した。

コーヒーショップで朝ごはんをとっていたら、動悸がしてきた。もしかして、今、全裸だから?

→ミスリーディング。動悸がしてきたことは事実。全裸で外出したという事実はないが、服を着忘れたのではないかという懐疑そのものは主観であり、疑いを抱かなかったと断言はできない。

とりあえず出勤。とはいえ、手元にあった仕事は3月中にほとんど引き継いでしまった。新しい業務をまだ渡されていないので、午前中でタスクが片付いてしまった。午後はサボるとしよう。

→ほぼ正確。労働はしなかったものの、業務に関わる資料の読み込みを行った。

そうやってお前はそうやってサボりサボりと呼んで道徳的に後ろめたい気持ちにさせようとするけど、そもそも職掌範囲が明確でなく、手元にタスクがないのは労働者じゃなくて雇用側の問題じゃないの? 俺が悪いんじゃなくて企業社会が悪いんじゃないの? いつもいつも社会が悪くて俺は悪くないんじゃないの? 社会の側が角を曲がる度に鏡を設置しておいてくれれば「さっきまでは服を着ていたけど、今この瞬間に全裸に転生しているかも知れない」って懐疑しなくても済むんじゃないの? なんかみんなこっちをチラチラ見てるんじゃないの? 俺はやっぱり全裸なんじゃないの? 社会が俺を笑いものにしているんじゃないの?

→検証対象外。筆者の主観や評価を書き連ねているだけであり、真偽を証明できない。

この記述を最後に、日記の筆者は消息を絶っている……。

→判定留保。4月2日にならなければ検証が難しい。また、ファクトチェックには直接関係しないものの、この一文を記載した人物は誰か? という疑問点が残る。

連休明け日記

朝、メシを食いながら労働しようと思って駅前のファミレスに行き、ドリンクバーの前に立ったところで、ズボンのベルトがバックルに通ってないことに気づいた。

ズボンにベルトは通しているけど、最後にバックルで留めずに先っぽをぶらぶらさせたまま駅まで歩いてきて、通勤客が行き来する駅の自由通路を通り抜け、繁華街の中にあるファミレスまでやってきたというわけである。

リュックサックをちゃんと閉めないまま歩き回るのは結構頻繁にやっちゃうのだが、ベルトを留め忘れたのは初めてだ。

半年に1回ぐらい、ヤバいジジイを見かける街に住んでるんだけど、俺も着々とヤバいジジイになっていってる。本当に意味で俺もこの街に馴染んできたな。

暖かくなるとヤバい人が出てくるようになるということはよく言われる。

俺にも春の足音が聴こえる。

連休前夜日記

賃労働において、昨年末ぐらいから負荷が高い状態が続いていたのだが、急に先が開けて楽になってきた。今年度分のタスクはほとんど片付けてしまった。やろうと思えば3月末まで有給休暇をぶち込んで一切労働しないということもできなくはない。でもやらない。俺の背後で控えてる未来の俺が「4月以降の仕込みをしろ」とテレパシーで圧迫を加えてくる。何故なら俺も社会の歯車に過ぎないから。「社会人」というものが何なのか全くわからないまま、社会の歯車になってしまった。

とはいえ久しぶりに賃労働のことを考えずに休める連休に突入する。秀吉は一晩で城を建てたんだから、俺ぐらいの凡才でも3日あれば大抵のことはできるだろう。明智光秀は三日天下と呼ばれて無惨な最期を迎えたんが。

光秀の故事に怯えたわけではないが、しかし何となく何にも手が伸びない。積んでる本も積んでるゲームもあるけど何となく手に取る気が起こらない。出かけるにしても花粉の飛散のことを思うと億劫になる。

「やりたいこと」をやるモードに脳が切り替わってくれないなら、「やらなければならないけど手が付けられてないこと」をやるというモードならどうか。これなら賃労働とも近似してるだろう。そういう目線で自室を見回してみると、「本棚の耐震性強化」が浮かぶ。今までの気休めみたいな対策に心もとなさを覚えてから、年単位の時間が経っているが、まだ手を付けられていない。モタモタしている内に本棚はとっくに満載になっていて、その前の床に入り切らない本が山と積まれている。耐震強化グッズを買ってきても、この床に積んだ本の山を何とかしなければ、取り付けることができない。こうやってタスクを積み残している内にその前提となるタスクが積まれてきて、どんどん面倒になって余計に気持ちが遠のいていく。

てぇかさ、本棚と別にこれだけ本を積んでるなら、本棚の耐震強化しようがしまいがこの本の山が崩れるんだし、やってもやんなくても同じなんじゃね? 大宇宙規模から考えたらこの程度の差は誤差とも言われないんじゃね? 元より読みきれないほどの本を抱えて無為に生きてることの愚かしさに1滴の賢しらな小手先の技を加えてみたところで、諸行の無常に抗うことなどできないんじゃね? 「形あるものはいつか壊れる」とは本棚と本の山のことを言ってるんじゃね?

と、ほとんど無常の悟りに近づいてしまったので、何もしていないのに安らかな気持ちで床につくことができた。言わずと知れた禅僧・一休宗純も、(史実ではないとされているが、民間伝承において)こう言ったと伝えられている。

「あわてない、あわてない。一休み、一休み」

タマタマ・飲み会・ナッシー

労働を終えて帰りの電車が見たことないぐらい空いてて混乱した。今日って祝日だったっけと思ったけどどう考えてもド平日だ。昼間にはお客さんとミーティングもした。自分以外誰も乗ってないなら「ははーん、さてはきさらぎ駅行きだな?」とも思えるけど、俺以外にもまばらに乗客はいる。結果的にやはり何だかわからなくて、かえって不気味である。

電車を乗り換えて、あと二駅というところであまり効いたことのないトラブルで電車が止まった。復旧の見通しが立たなかったけど、結局1時間弱ぐらい止まって動き出したが、その直後にだいぶ先の駅で事故があったとのアナウンスもあった。俺は再び電車が運転見合わせに入る前に最寄り駅にたどり着けたが、それにしても奇妙なめぐり合わせの日だ。不気味なぐらい電車が空いたと思ったら、トラブル連発で電車が止まる。

惑星直列級だな、という表現が頭に浮かんだけれど、これは独りよがりな考え方ではある。電車に乗らなかった人たちにはそれぞれ理由があろうし、2つのトラブルもそれぞれに固有の理由があり、それらが重なったのは偶然でしかない。惑星の位置はそれぞれのタイミングで必然的である。惑星が直列していようがいなかろうが、それぞれの惑星の位置は同じ権利を持っている。惑星直列とは切り取り方によって、(本当なら他の事象と同じ価値、同じ権利しか持たないのに)なにがしが意味や価値を勝手に投影されている事象でしかない。偶然の積み重ねから「物語」を駆動させるのはよくよく気をつけるべきである。物語は陰謀論のはじまり。

だから俺が会社の飲み会の案内を速攻で「不参加」にしたのも、たまたま私用とバッティングしただけであって、何も他意はないんです。私用ってのはあのー、何か、ここのところ近所のブックオフに行ってなかったんで、何かぶらぶらと110円〜220円コーナーを眺めて回りたいなって思ってて。もうそれはこの日ってずっと前から決めてたんで。そういうことってあるもんなんですよね。

風邪引き労働日記

風邪が悪くなりも良くなりもしないまま労働していた。

人間というのは勝手なもので、健康だと「リモートワーク最高! テクノロジーの恩恵です!」となるけど、風邪引いてると「誰が風邪引いてても労働できる環境なんか作りやがったんだ……」となるのである。戦争の歴史を断ち切ることができないのも、きっとこんな些細な人間の習性から始まっているんだろう。

とはいえ、午前中には懸案事項になってた書類を6つほど送り出したので、具合は悪いけど気分は爽快、今日は枕を高くして寝られるぞ、と思ってたら夕方には6つそれぞれの理由でリテイクせよとのメールが返ってきていた。

体調が悪いと何をやってもダメですね。全部体調が悪いせいなんです。いつもならもっとしっかり書類作れるんですけどねー、あーあー。

今日はもう寝ます。

風邪引き日記

昨日、のどに繊維がからみつくような違和感があって、「花粉症でマスクつけっぱなしのせいかな? マスクの繊維を吸い込んでいるのか? 猫みたいに毛玉吐いちゃう? オフィスの真ん中で毛玉吐いちゃう? 毛玉吐くだけならともかくじん肺的なアレになったりしない? これ詰んでる?」って思ったんだけど、寝て起きたら「のどの違和感」は「のどの痛み」に発展して、しっかりと風邪の症状が出ていた。そうだったそうだった、俺の風邪はのどから来るんだった。

テクノロジーの進歩により現代では風邪を引いていても家に引きこもったまま労働ができてしまうんだ。風邪を直すテクノロジーは全然できなくて熱・のど・咳をうっちゃるだけの対症療法しかないのにね。神様ってのは理不尽なもんだね。神様の手抜き労働を愚痴ってみても仕方ないから、ハチミツを溶かした紅茶をガブガブ飲み、筋肉がゾワゾワする悪寒に抗いながら労働した。

しかし昨日は労働しながら時たまケホケホと空咳が出て、心の中では「花粉のせいかなー、風邪じゃないんですけとねー、周りの皆さん、不快に思われたら申し訳ありませーん」とお詫びしてたんだけど、全然風邪でしたね。思い返すと何であの状況で「自分は風邪」という認識がこれっぽっちも思い浮かばなかったんだろうか。労働は頭を悪くするな。マスクはしてたけど、ある程度風邪の菌も漏れ出してたよね。どうもすみません。自分の過ちを認めて素直に謝罪したので、風邪の菌をばらまいてたことと差し引きで徳ポイントはプラマイゼロになりましたね。よかったよかった。

晩ご飯は天津飯を食べた。閉店間際のスーパーに忍び込んで、タイムセールになってたやつを買った。玉子粥がなかったから。

やめよう、見立てカラオケ

スーパーで三割引のぼんじり串を買ってきて食べながら、「尻周りの肉を串でぶっ刺して貫通させて焼くのって、見立て殺人みたいだな」と思った。何に見立てているかは一旦置く。

見立てと言えば、昔テレビの音楽番組で「彼氏/彼女にカラオケで歌ってほしい曲ランキング」というのをやってて、流行りのラブっぽいソングがズラズラとランキングされていて、頭の上にでっかいハテナが浮かんだのを思い出す。

ランキングの性格から言って、彼氏/彼女の声質や歌の上手い下手は考慮しない前提だろうから、おそらく歌詞や歌手からくるイメージを見立てていたのだろう。個別具体的な相手との人間関係の現実を積極的に幻想で覆い隠そうとしている。動物の交尾と人間の性交渉を分かつ要素の1つは幻想性なのだから、彼氏/彼女との見立てカラオケは性行為と言ってしまっていい。

見立て殺人と見立て性行為。対称的に見えるものはある意味でよく似た構造を持つものだからこそ「対称的」でありえる。つまり見立てカラオケは人のぼんじりをハンドマイクで貫いてるのと同じなのである。そして人のぼんじりハンドマイクぶち込み行為は見立て殺人と同じなのである。魂の殺人なのである。

あとそのマイクは次の人も使うんだからね。

分別を持った大人として、やめよう、見立てカラオケ行為。

徳とは何だろうか

1日長丁場になるので、先に駅のトイレに行っておくことにした。個室エリア(ウンコーナー)がいっぱいだったので並んでたら、後ろからコントみたいにお腹が痛い人がやってきた。お腹を抑えて内股になり、ハニワみたいに口を開け、よろよろと俺が並んでるのを通り過ぎて個室の扉をノックする。無情に返ってくるノック音。あきらめた彼は俺の後ろに並び直した。俺が認識できてなかったわけではなく、一刻も早くダムを放流させなければ水門が決壊する危険があり、下流に土石流を放射、彼の身の回りの社会をめちゃくちゃしてしまうという危機感がそうさせたらしい。

少しして(ダム保守員の彼からしたら何時間に感じられただろうか)個室が1つ空いた。それほどの貯水量でなかった俺は、後ろの彼に「お先にどうぞ」とうながした。彼は苦悶の表情で声にならない声を漏らしながら(礼を言ったのかは定かでない)ゆっくりと個室に吸い込まれて行った。駆け込んだら決壊しかねないほど苛まれていたのだろう。

ここで俺は問いたい。徳とは何だろうか。取引を持ちかけて失敗したら容赦なく爆弾を降らせるような国を同盟に持つ民として、どんな顔をして徳について語れば良いだろうか。もちろんWhatを問うことも重要だ。しかし一貫性がないからと言って、一面のgoodnessを捨て去ることが果たして「徳」にかなうだろうか。徳とは日々の実践の中でも磨かれるものではないだろうか。間違いを犯しながら過ちを正しながら、時には後戻りしながら少しずつ前進するものではないか。俺は完全無欠の道徳人間ではない。孔子においてすら、徳は実践が難しいものだった。だから問う価値があったし、実践の中でも追求されていった。

逆に完全無欠の「徳」概念が出来上がったとしても、それが実践されなければ「徳」と呼べるだろうか。否。断じて否。俺は主張したい。恐れずに徳を実践せよ。それが自分故人の利益にならなくても何だというのか。内なる自己の反逆が抑えきれなくなったら、進んで安らぎの場を提供してもらえる社会になってくれるなら、それが最高の報酬ではないか。

俺も神を呪いながら行列に並んだことは何度もある。創造主たる観念上の神を呪っても、被造物たる実在の人間を信じられる世の中になってくれるなら、神も笑って許してくれるのではないか。俺はその程度には超越的存在を尊崇している。

肉体・シェイク・命の灯火

Is that Tom Brown? He looks so different now! He had brown curly hair in high school, but now he's almost bald!

Duolingoをやってたら、ほぼトム・ブラウンのみちお氏の話が出てきた。

ハチャメチャに肉体労働して帰ってくる途中、マクドナルドを見て、急に「マックシェイクだ」という気持ちになった。

普段からアイスクリームの「クリーム」分があまり好きじゃなくて食べないし、ましてやシェイクは全くのご無沙汰だった。関心がないのではっきり覚えてないが、下手すると小学校低学年以来にマックシェイクを注文した。

でもって、トレーに乗って出てきたシェイクを見てビックリ仰天、プラストローが並んでるじゃないか。おいマクドナルドのプラストロー、こんなところに残ってたんかい! 最近は紙ストローすら付かなくなったのに! シェイクの愛好家は、俺が昔日のプラストローを懐かしんでるのを横目に、しっぽりとねんごろの日々を続けてたのかよ。

思いがけず再会したプラストローに動揺しながらシェイクに突き立て、吸い込んで見ると、吸えない。全然吸い上げられない。無理に吸ったら、みっちりとシェイクが詰まったストローが槍のように喉奥を貫きかねない。シェイクってこんなに難度が高い飲み物だったんだ。命を賭したアドベンチャーの先に糖とカロリーというビッグなお宝が待っているんだ。シェイク愛好家の日々はこんなにも輝いていたのかよ。

味は別に好みじゃなかったんでしばらくいいかな。次は病床で弱りきってもはや固形食を受け付けなくなった最期の時に口にするかも知れない。シェイクを飲みながら、命ということについて色々と考えました。

電子レンジ・爆破・貞夫

昨日、電子レンジのタイマーだけが壊れたって話を書いたけど、壊れたのはタイマーだけじゃなかった。出力も調整できなくなってた。

ウチの電子レンジは200W(解凍用)、500W、700Wの出力が選べるようになっていて、ブレーカーがトリップするのがイヤだから、いつも500Wで使っていたのだが、明らかにオーバーパワーが出ている。ダイソーのレンジパスタゆで器でパスタをゆでたら、レンジから取り出した時点でお湯が消失して完全に伸びた状態のパスタが出来上がってた。日本とイタリア以外では主流だが日本人とイタリア人が見たらサラミより真っ赤になって怒り出すタイプのゆるゆる麺。

何てこった、タイマーごとき壊れたって人間の科学力(スマホのタイマーアプリ)で十分制御できると思ってた俺が浅はかだった。電子レンジの出力と加熱時間ってだいたい反比例関係にあるイメージなんだけど、仮に何Wで設定しても700W出てしまうと過程しても、時間計算がやや面倒なんだよな。500Wで3分温めてたものを700Wなら何分温めればいいか? 暗算しづらいし、計算機を使ってもすっきり割り切れる時間にならない。

だいたい上限が700Wだって保証もない。実はそれを遥かに超える天文学的出力が出てて、もう10秒長くパスタを茹でてたら過熱したパスタが爆発、ショットガンのように黄色い飛沫となって放出され、電子レンジ前の椅子に座ってた俺はパスタペーストをみっちりと浴び、全身やけどを負い悶絶死してたかも知れない。そうなったら俺は史上初のパスタ悶絶死幽霊として絶対に化けて出てやる。そもそもそんな天文学的出力が出ちゃってるのに電源を遮断してくれないブレーカーがおかしいだろ。ブレーカーのメーカーにもゆでパスタ文字をくっきり浮かび上がらせて抗議してやる。他の電気製品のモニターから金髪長髪の貞子が出てきたと思ったらパスタを頭から被った俺だ。幽霊だって泣き寝入りしない。NOと言える日本人になる。これが死してなお敵に食らいつく大和魂だ。本当に食らいたかったのはパスタなんだけど。

電子レンジからAIへ

電子レンジが壊れた。

厳密に言えば、電子レンジのタイマー機能だけが壊れた。

更に一歩踏み込んで言えば、我が下僕と思っていた電子レンジ野郎を唯一縛っていた足かせであるタイマー機能が壊れたため、野郎は電気エネルギーが供給される限り無限に内容物にマイクロウェーブを放射し続ける暴走モンスターマシンと化した。

まぁ、手動で停止することはできるので、スマホのタイマーとかで時間を測って使えば全然問題ない。安物だし買い替えても良いのだが、粗大ゴミを出すのがめんどくさいので、しばらくこのまま使ってみようと思っている。

しかし「タイマーの壊れた電子レンジ」ってのは、考えてみると人生に似ているかも知れない。

意識して活動することはできるし、意識して静止することもできる。しかし自分の活動が自然に終わる日(寿命)を自分で認識することは難しい。外部(医師の知見など)の知見を借りなければ、自分がいつ「終わる」のかはわからないのである。これってかなり人生っぽくないか?

と思ってこの記事を書き始めたけど、一定の詭弁力があれば何でも人生に例えられるような気もしてきたな。

床に本を積んでるせいで本棚を作るスペースが確保できないのも人生っぽいし、ゲーミングPC欲しいけどゲーミングPC買ってまでやりたいゲームがないのも人生っぽいし、牛乳の賞味期限と絶賛デッドヒート中なのも人生っぽい。

それらのどこがどう人生っぽいのか、今は具体的に指摘することはできない。何故なら詭弁を考えるのが面倒くさいからだ。生成AIに頼めばそれっぽいことはでっち上げてくれるだろう。面倒くさいことはAIに任せればよい。早く粗大ゴミの手続きもAIがやってくれるようになってほしい。

こういう卑小なところでつまづくのも人生っぽい。

他人の信心から自分の身体を反省した

先週末に右足を軽く捻挫してから1週間経った。歩けないほど痛むわけではないし、最近俺の心を癒やしてくれるものが無軌道な散歩しかないので、いつもよりゆっくり、チンタラと散歩している。そしたらそこまでひどくない痛みが「そこまでひどくない痛み」のまま、全然引いていく気配がない。低め安定。もしかしたら、捻挫した時はあまり歩かないようにしたほうが良いのかも知れない。

医療知識のない素人の雑な推測はともかく、体感で通常時の半分ぐらいの速度でチンタラと散歩していると、見えるものが違ってくる。車と自転車の移動では目に入るものが違うし、自転車と徒歩でも見えるものに差が出てくるのは知っていたが、徒歩でさえ歩く速さで目に入るものが違うというのは発見だった。何度も通っているはずの場所でも知らないことがたくさんある。こうなると、労働中の移動でも少しばかり面白みが増してくる。

今日は通りがかったコインランドリーの貼り紙の妙なタイトルに気がついた。

【当店の乾燥機】

外国製は一方向にしか回転しません。

当店の乾燥機は二方向(左右)に反転するので、むらなく乾きます。

【当店の洗濯機】

外国製はすすぎが1回です。

当店の洗濯機は2回すすぎで水量も多く、高速回転するドラムなので、充分に脱水でき、良い仕上がりになります。

※外国製と比べて日本製の電化製品は優秀です。

※当店の機会は全て旧サンヨー電機(現アクア)製です。

アクアって外国資本じゃなかったっけ。三洋電機がなくなったのも10年以上前じゃなかろうか。となると店主が称揚する「日本製」という定義に含めていいか悩む機械か、少なくとも10年以上前の機械が現役でやっているということを示す、逆広告コピーみたいになってしまっているのは気になるが、しかし仕事に誇りを持てるのは良いことだなぁと素直に思う。

俺が居住地の近所で唯一人間的な交流をしている商店の店主が、某有名新興宗教のキーワードを使っていることに最近気付いた。どう考えても割に合っていなさそうなサービスを提供し、過労を心配したくなる長時間営業を1人で回している(しかし遅くまでやってくれるのはありがたいので「早く閉めた方がいいのでは」とは言えない)店主を支えているのが某宗教団体だとわかって、少しほっとしたという気すらする。

人生という難行苦行には「支え」が必要だよな。

俺も散歩をほどほどにしないと、松葉杖という支えを必要とする身体になってしまうかも知れん。ほんとはもっと別のことを書くつもりだったが、書いてる内に反省の念が強まってきた。ブログを書いているとこういうこともある。

やればできてしまう

ハチャメチャに根詰めて労働してて日記が書けない。労働時間はそんなに長くないけど、8時間もやると疲労困憊してるから、あきらめて退勤してるだけ。これ以上やると気絶しかねない。気絶はヤバい。

鬼滅の刃は全くタッチしてないしオリンピックもわからないしジブリ映画もほとんど観てないし「国民的◯◯」がだいたいわかっていない。文化的非国民と指弾されかねない。不倫も文化と言うから当然不倫もしていない。そもそも結婚していない。何のために生まれて、何をして喜ぶ。わからないまま終わる。そんなのはイヤかと問われれば好きも嫌いもない。早く嵐が去ってくれと思っている。生きていないなら死ぬこともない。

死んではないけど先週ライトに負傷した。禍福は糾える縄の如しとはよく言ったもので、それを口実に好ましからざるイベントを1つキャンセルできた。いや言い方を間違えた。好ましいか否かではなくて選択と集中である。リソース(体力)が減ったら向き合うアクティビティを減らすしかない。イベントは行けない。日記は……書けるな。つらつら出来事を並べてたら日記が書けてしまった。根詰めて働いてても日記は書けてしまう。てことは俺は日記をサボってただけということになるじゃないか。

何のために生まれて、何をして喜ぶ。わからないまま終わる。

回心の一撃

気分がくさくさするのでアッシジの聖フランチェスコの伝記物語を読んでいた。(永井明『アッシジの聖フランシスコ』)フランチェスコとは全てを捨てて清貧に生きた、キリスト教における有名な聖人だ。

著者は児童文学者だそうで、文章が極めて平易なので読んでて疲れない。道徳的な逸話ばかりが並べられていく。心が洗われるようだ。俺は宗教的・哲学的偉人の伝記を異世界転生物語のようにして楽しんでいるかも知れない。俺が叶えられない徳高い生活をバーチャルに体験している。のだが。

フランシスコは、静かなこの聖堂が好きで、よくひとりで行ってはお祈りをしましたが、ある日のこと、彼はいつものように、聖十字架の聖像の前にひざまずいて、

「神さま、どうぞあなたの光でわたしを照らし、わたしが何をしたらよいか、わたしのなすべきことを教えてくださいますように」

と、祈りました。すると、ふしぎなことが起こりました。木の聖十字架のイエズスさまの聖像が、突然口を開いて、こうおっしゃったのです。

「さあ、フランシスコよ、行ってわたしの家を建てなおしなさい。わたしの家は、いまにも倒れかかっている!」

「はい、よろこんで!」

この本が書かれた1963年(初版)当時は、フランチェスコの眼の前で奇跡が起こり、そのことに心の底から喜びを感じている重要なシーンとして書かれたはずが、後世の飲み屋の店員の定型句と重なってしまって、現代日本では意味合いが変わってしまっている。はつらつとした宗教者の顔が、うんざりを隠したバイト店員の顔にモーフィングしてしまう。

逆に言えば、こういう内心を縛るような定型句が、いかに人々の心をゆがめ、自発性を奪っているかという問題を照らし出してもいる。それもこれも現代のケア労働が悪いんだぜ。絶対に許せないぜ労働!

って思ったんだが、フランチェスコ自身は労働を厭わなかった。むしろ過酷な労働と無所有、あらゆる身体的快楽の否定によって「罪の赦し」を望む生活を続けた。キリスト教布教の途上で命を落とした殉教者たちを羨みさえした。うーん、百歩譲って清貧の生活までは良いとしても、「殉教」って言われると俺は引いちゃうんだよなぁ。

パスカルは「神の実在を信じても損はないし、むしろ無限の幸福の可能性が出てくるんだから、神を信じた方が得」という有名な「パスカルの賭け」を説いたけど、殉教まで行くとちょっと考えものだ。フランチェスコの同志の中には、何度出禁を食らってもイスラム教徒の中で宣教を行い、怒りを買って、一晩中裸でガラスの破片の上を転がされる拷問を受けた後、首をはねられて死んだ者たちがいたそうだ。これ、もし神がいなかったら大損こいてませんか? パスカルさん、あんたこの話「はい、よろこんで!」と言えますか?

まぁ、同じ宗教を信奉すると言ったって色んな立場はあろうから、ひとまとめにして語ってはいけないかも知れない。もしかしたら飲み屋のバイト店員さんの中にも、毎度毎度心の底から喜びを感じながら「はい、よろこんで!」と注文を受けている人がいるかも知れない。もしそういう店員さんが本当にいたら、俺もパスカルと一緒に賭けてみようという気になるかも知れない。殉教の日にYouTubeライブで実況しながら、コメント欄の質問に答えるわけだ。「あの店員さんの心からの笑顔が、俺を回心させたんだよ」と。そしてピクシブ百科事典辺りに俺の最期がまとめられるわけだ。

ピクシブ百科事典に珍人物としてまとめられることがパスカル的に得か損かは、よくわからない。

元気がないから何も抗えない

ここのところ、職場の人にリンゴ酢を飲むといいよと勧められたので、1日1回、リンゴ酢を水で薄めたものを飲んでいる。

リンゴ酢身体にいい説について何ひとつ調べてないので、その道に詳しい人に「科学的でない」って言われるかも知れないけど、別にいいんだよ。職場の人のおすすめに従ってみたとなれば、お互い心を開きやすくなるし、コーラ飲んだって骨溶けないなら、ちょっと酢を飲んだぐらいでは骨溶けないだろ? 溶けないのか? そういうこともありえるのか? 書いてる内に若干心配になったが。

それはそうとして、リンゴ酢を水で薄めたものはマズい。酸っぱいものがあまり好きでなく、普段から酢を使わないので知らなかったが、リンゴ酢と言ってもリンゴの味がするわけではなく、普通にただの酢だ。酢を水で薄めただけのものをそのまま飲んで美味いわけがない。しかし、マズいけど飲めないわけではない。飲めるけど飲んでる間ずっと「マズいなぁ」と想い続けてる。

マズいと思ってるけど続けられるのは、1つには「イヤなことに抗う体力が失われてるから」ではないのか? と疑っている。

俺はかつて、大層反骨心が強いお子様だったそうだ。病院で診察を受けるのがイヤで大暴れし、大人3人がかりで押さえつけたという話を年に1回は聞かされる。それが今となっては、労働中に地雷が回ってきても、あからさまなため息が増えるぐらいのことで済ますようになってしまった。別に大して守るべきものもないのだから、抗わなくなったのは、抗う体力がなくなったからと考える他ない。

もしかすると、リンゴ酢習慣を続けて健康が改善し体力を取り戻すことができたら、リンゴ酢に抗うことができるようになり、その時まさにリンゴ酢を卒業したことになるのかも知れない。

逆にリンゴ酢で健康を得られないと、清朝のアヘン窟のように、いつまでもぐったりしたままリンゴ酢を口から流し込み続けることになるのだが。

輝かしい未来が待っているか、アヘン窟のどんづまりが待っているのか。人生、意外なところに岐路があるものだ。