早く寝たので朝早く目覚めたけどめちゃ眠くて、寒くなると睡眠時間が長くなるなぁと思いながら二度寝したりしてたが、今日は最高気温が30℃越えだった。単に眠いだけだ。
たまに気になることがあってSNS上で特定の語で検索かけたりすると、自分と全く違うインターネットの使い方をしてる人にぶつかってびっくりすることがある。今日はとある大きな駅の名前で検索をかけたら、その付近で出会い目的の定型文を定期的に投げてるだけの人にヒットした。逆上ってみると半年ぐらいはやっているが、あまりフォロワーもいなさそうなのでメリットないのでは? と思ったのだが、考えてみると目に見える利益に可能性がひとかけらもないのに、妄言を読んだり書いたりすることにばかりインターネットを使っている俺の方がよっぽど意味不明なのではなかろうか。出会い目的の人の方が(社会的セキュリティホールを積極的に露呈している点を除けば)コストはほぼゼロで(わずかであっても)利益が得られる可能性しかないわけだからな。社会的セキュリティホールの露呈はこの妄言日記だって同じことなんだから、よく言ってキチガイ沙汰、悪くすれば自殺行為だ。
何が目的でこの日記を書き始めたんだったか……わずか1ヶ月前のことなのに思い出せない。「なんか書けるなぁ」と思って書き始めたことは覚えているが、それって「手が届くからつかんで、口に入るから口に入れた」という赤ちゃんと同じレベルじゃん。文明の利器と自分の文化力を総動員して書いてるつもりが、無垢でキュートなベイビームーブだったとはな。お釈迦様でも気づくめぇよ。だってお釈迦様の時代にはインターネットもブログもなかったから、インターネットやブログを駆使した人類の愚行のことなんて考えなかっただろうからね。
悟りを開いたお釈迦様は「この真理、たぶん他人はよくわかんないだろうから」ってしばらく一人で真理の世界を楽しんでたんだけど、「その真理を広めてくれ」と梵天(神様のような超越的存在)に乞われて渋々他人にも説くようになったというエピソード(梵天勧請)がある。でもその時に「ブログで教えを広めるか」ってなったら、欲得から離れることを説く記事にセクシー広告がついてるのを見て、だいぶ厳しい気持ちになったりしただろうし、また一人で真理の世界を楽しむ生活に戻っちゃってたと思うんだよね。お釈迦様の時代にインターネットがなかったお陰で、今も我々はお釈迦様の慧眼を学ぶことができるってなわけで、逆に言えばインターネットはナチュラルボーン末法ってこと。どうせお釈迦様の真理の光が届かない場所なら、やっぱり出会いを求めて定型文を連投するほうが賢いということになるのかも知れないな。