アニメ版の『フランダースの犬』と『母を訪ねて三千里』のキャラクターたちが国勢調査のプロモーションをしていて、確かに彼らこそ実態把握と公助を必要としていた存在だと思った。肺腑をえぐってくるような説得力だ。
久しぶりに行った現場で労働して、昼食をどうしようかと思ったら近所に新しいラーメン屋ができたという。俺はラーメン一般があまり好きでないのと、なか卯の担々うどんを好みすぎているので、お店の様子を見るだけ見てなか卯に行こうと思ったのだが、店に行ってみるとなんか変わったラーメンがあるし、急に雨が強くなってくるし、まぁ話のネタにラーメンにしてもいいかと結論してのれんをくぐった。
注文した変わり種のラーメンは結構美味しかった。クリーミーでポタージュのようなスープと平打の麺がよく合っている。見た目ほどオイリーでもない。これはまた食べてもいいなと思ったのだが、価格が温玉坦々うどん(660円)1.9杯分する。果たして俺は温玉担々うどん1.9杯分の満足が得られたと言えるのだろうか。
まぁハイソな土地のど真ん中に開いてる店なので、家賃と諸物価高騰を考えれば、絶対値としてはぼったくり価格とも言えないが、担々うどん1.9杯分という相対値にはかなり重大な問題がある。これが2杯ぴったりに近づくのであれば明確なイメージができるのだが、1.9杯というイメージは難しい。何故ならなか卯で「うどん0.9杯」という注文はできないからである。財布に594円(=660×0.9)しか入っていなければ、並盛の温玉担々うどんはあきらめなければならない。坦々うどん0.9杯分の満足とは、人類未踏の概念なのである。
とはいえ「並盛を頼んで、0.1杯分取り分けて残った場合」を想定することはできるかも知れない。しかしこの場合、誰が0.1杯分を取り分けたかによって情報にノイズが乗ってくる。例えば海原雄山が0.1杯分取り分けられたとしよう。海原雄山が料理に少ししか手を付けないのは不満の証なのだから、もしかしたら俺がこれまで無邪気に楽しんできた坦々うどんってBADテイストなのかも……という不安が起こってくる。
しかしまた一方で、あの海原雄山がわざわざなか卯に乗り込んできて、当然食券機で自分の分の料理を注文した上でカウンター席の俺の横に並び、更に俺の温玉坦々うどん0.1杯分を取ったとすれば、これはとんでもないポテンシャルを秘めた料理なのではないか、俺の舌に間違いはなかったのではないかと心ウキウキワクワク、午後の労働も東京ブギウギという具合になる。この時はもはや「0.9杯分」という抽象量は何の意味もなさない。0.1杯分を一息に食べきった雄山が物欲しそうに残りの0.9杯分をじっと見ていたら、俺は快く「どうぞ」と差し出すだろう。坦々うどん1杯分の満足を遥かに凌駕する心的満足を得た上で、コンビニでソーセージパンでも買って腹をふくらませるに違いない。武士は食わねど、いざその時が来れば自ら進んで高楊枝で気取るものなのである。俺こそがサムライ、都会を生き抜くアーバンソルジャーだ。
というようなことを考えながら会計を済ませて、午後労働したんだけど、胃に収まったラーメンとスープは重たくて、あまり調子が出なかった。「満足感」は本当に難しい。