全裸じゃなくても楽しいよ

昨日の日記を書いてから寝る前までに、吉川忠夫『魏晋清談集』を読み終えた。三国志で有名な魏から晋時代にかけての古代中国の著名人の言行録やエピソードを集めた『世説新語』から拾い上げたアンソロジーである。

王平子(王澄)や胡母彦国(胡母輔之)の連中は、みんなやりたいほうだいを自由とこころえ、なかにはすっぱだかになるものまであらわれた。楽広は笑っていった。「名教1のなかにもそれなりに楽しい境地があるものを。どうしてあんなことをするのだろう」。

吉川忠夫『魏晋清談集』法蔵館文庫

まさにまさに。ましてや大人が珍妙な服を着て大騒ぎして喜んでいるのなど、滑稽と言うべきである。

と同時に、これってこの本を読む意義でもあるし、もっと広く古典作品を読む楽しさを突いているなと思った。

古典を読むと何か良いことがあるのか

俺は古典を遊び半分どころか遊び九分ぐらいで読んで、しかも読んだ後、古典をネタにしてふざけて文章書いたりし、インターネット上で公開までしているわけだが、古典というと居住まいを正して眉間にシワを寄せて読まないといけないのではないかと思われる向きもあるかも知れない。

この答えには資料的な裏付けはないのだが、あえて断言すると、古典を読みながらふざけていたやつは歴史的にも絶対にいたはずである。真面目に読んだやつが真面目に読んだ成果を本としてまとめて、それが後世にも残ってきてしまったので、古典は真面目に読むものと思われてしまっている。真面目読書バイアスと言っていい。でもインターネットを見ればすぐにわかるように、人間は何を見ても絶対にふざけるのだから、古典を読んでふざけていたやつも絶対にいる。ふざけていたやつはふざけながら滅んでいっただけのことだ。

逆に言えば、20世紀終盤から21世紀に入るに従って、世の中に意見を発表するコストも下がり、人類史上初めて「古典を読んでふざけるやつ」のドキュメントが世間に広く公開されるようになったわけだ。21世紀はふざけるやつの時代だ。みんなもっと古典を読んでふざけよう。といきなり言われてもそんなことする理由ないよと思われそうなので、まずは古典を読む卑近なメリットを挙げておくことにする。

品質が保証されている

古典と称される作品は、何世代にも渡って読みつがれてきたような「名作」揃いである。細かく言っていくとかなり色々問題はあるのだが、大枠こう言っておいていいと思う。1年でリリースされる本の中から金の卵を選び出そうとすれば、それは砂場から一粒の砂金を探り当てるような努力が必要だが、「古典」の中からであれば、半分ぐらいは砂金と言っても良いだろう。コスパ・タイパを求めるあなたには古典読書をおすすめする。

値段が安い

古典は書かれた年代が古いのでパブリックドメイン、すなわち著作権が失効していて複製し放題、公衆送信し放題のものがある。無限にコピーして高層ビルの屋上から歌い踊りながらばらまいたって著作権法上は問題ないわけだが、その場合は別の法律や条例などでしょっぴかれることが考えられる。

ともかく、著作者・著作権者に金を払わなくていいのだから、その分安く出回る。古本屋でも安くなりがちなので(ただし定評のあるものは最安値にはならないものである)、ワンコインで数日は遊べる。青空文庫に代表されるような無料電子書籍プロジェクトや、国立国会図書館デジタルコレクションなんかもある。最近は古典洋書原文をAIに翻訳させて、Amazonで電子書籍として売るなんていう終わってる商売もあると聞くが、それが可能なら自分で翻訳して読めばタダである。遊びで読むならそれで十分である。2

人間が昔から同じようなことで悩んできたことがわかる

古典を読むと、昔から人間って同じような悩み事を繰り返していて、大して進歩がないということがわかる。歴史に名を残し本を残してきたようなやつは、当時の水準から言ってものすごく頭のいいやつだったことになるのだが、それでも悩みの根本はあまり進歩しないものなのだ。自分の悩みが自分だけのものではないというのは(人に寄って意見は色々あるだろうが)一つの光明になり得るし、そこで提示されている考え方も多いに参考になるだろう。

例えば西洋哲学が二千年以上の歴史を持ち進歩してきたといっても、それは解決に向かうゴールの位置が変わったり、細分化されたり、より奥深い位置に設定されたりしているのであって、スタート地点は似たようなことから始まっている。ホワイトヘッドという哲学者が「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べたという話は有名だが、逆に言えば、プラトンが提起したような問題が、その後何千年も付き合うに足りるほど普遍的だったということだし、もっと言ってしまえば、個人がぶち当たるような問題、思いつくような考えはそんなに大きく変わらないということでもある。

色んな話とつながる

読書をする上で大事なのは「本と本はつながっている」ということである。本は本一冊で独立して存在するのではなく、互いに蜘蛛の糸のようにネットワークを形成している。例えばアニメやマンガなどで『西遊記』がしばしば参照されるのは、このネットワークによって作品を簡単に意味づけ・印象づけできる(「宝を求めて旅する冒険物語なのだろうな」)ということもあるし、原典をなぞったりそらしたりすることで変化をつけやすい(西遊記の人物と同じ名前の登場人物の日常学園ギャグ作品なら、かなりの変化球だ)。

しばしば読書家と呼ばれる人が読んでないし読む目処もつかない本を積み上げる理由は、まず第一には「正気を失っているから」だけれども、第二には「本と本のネットワークが重要だから」である。3

その意味で「これまであまり読書経験がなかったけど、これから読書頑張りたい人」にすすめる本って、旧約聖書か新訳聖書の二択だと思っている。エピソードにもよるけれど、物語形式の内容が多いから入り込みやすいし、おもしろいこともいっぱい書かれてるし、他に類書がないほど大量に参照されている。本は読んでなくても映画やドラマを観ているなら、「あの作品のあのシークエンスって、聖書のエピソードを参照しているのでは?」と思える部分がたくさん見つけられる。一冊読めば他の無数の本が楽しく読めるようになる。4

聖書ぐらい読まれている本だと、素人がパッと読んで理解が難しいと感じるようなことは、だいたいみんな同じようにつまづいていて、そういう人がたくさんいれば解説があるものだ。前にも述べたが人間が考えるようなことには大して進歩がないのだから。本と本のネットワークが大切だということはそういうことでもある。それが聖書となると「無理にも読ませたい人」がわんさかいるぐらいなので、手とり足とりの解説を見つけるのも用意である。

ただし気をつけたほうがいいのは「無料で聖書が勉強できる会を開いています」という文句はいかがわしい団体の常套句である。きちんと勉強したいと思ったら、相応の対価を求める、定評のある組織や人を頼る方が懸命というものだ。いかがわしい団体のいかがわしい論法を個人の理性で乗り切れるとは考えない方が懸命である。この文章の脚注でも述べているが、古典作品の多くは、いかに人間の理性がはかなく、頼りなく、いい加減であるかを述べ立てているのである。

だから俺も「古典を読むと立派な人間になれる」などと主張する気は全くない。古典を読むのは楽しいことだ。俺が言いたいのはそのことに尽きる。


  1. 直接的には礼教。もっと広く「儒教の教え」も意味する。
  2. 一応断っておくと、翻訳作品の場合は、原著者の著作権以外に、翻訳者の著作権を考慮する必要がある。海外古典は何度も翻訳されがちなので、他のどんな法令に抵触しようとも、著作権に抵触しさえしなければ、高層ビルの屋上から古典翻訳のコピーをばらまいてやりたいよという人は、注意が必要である。
  3. 大学教授などの中にも、第一の理由に色々ともっともらしい言い訳をつけて合理性を主張する人間がいるけれども、インテリとはまず正当化を得意とする人間である。アカデミズムの人間などは特に正当化でメシを食っている人間である。そういう人間の自己正当化を軽々しく信用してはいけない。古典の中には人間の理性を声高に称えるものも多くあるが、その何十倍も何百倍もの古典作品が、人間の理性のはかなさ、頼りなさ、いい加減さを指摘している。
  4. よくこの手のレコメンドで現代のライトな小説をたくさんすすめたりする人がいるけれども、単純に刊行されて間もない作品は参照される数が少ないのだから、このネットワークがわかりづらい。そういうことを言ってる本人は好きな作家の推し活感覚で言っているのだろうが。