荘子日記(2)

吾輩の辞書に「衣替え」の文字はない。寒くなったら上に着るし、暑くなったら脱ぐだけだ。

しかし今ぐらいの中途半端な寒さのときは難しい。おじさんなのでパーカーを上に着て近所を徘徊しているのだけど、ちょっと歩くと暑くなってきて袖をまくり、少し歩いて腕が冷えると袖を伸ばす。駅まで行って帰ってくるだけで何度も何度も袖をまくったり伸ばしたりしている。いくら安物のパーカーでもそのぐらいで袖かバカになったりしないが、俺がバカみたいだ。

最近の高級スポーツカーには、クルマのスピードに合わせてウイングが動くやつがある。ああいう感じで袖が縮んだり伸びたりするやつが作れないか。熱で曲がるバイメタルとか使ってさぁ。まぁどうやってそんな服洗うんだとか色々問題はあろうが、そういうのこそ人を幸せにするエンジニアリングってことじゃないのか。ギリギリのおじさんのパーカーの袖を伸縮させる技術と、セレブの高級スポーツカーのウイングを上げ下げする技術、キミならばどちらを一生の仕事としたいだろうか?

んー、俺だったらスポーツカーのウイングを上げ下げする方がいいな。

もし私が君と論争したとしよう。君が私に勝ち、私が君に負けた場合、果たして君が正しく(是)、私は誤り(非)なのだろうか。私が君に勝ち、君が私に負けた場合、果たして私が正しく、君は誤りなのだろうか。つまり、一方が正しく、他方は誤りなのだろうか。それとも双方ともに正しかったり、双方ともに誤りだったりするのだろうか。論争の当事者である私と君に、分かるはずがない。そうなると、周囲の人々は闇に惑うことになる。そこで誰かに判定してもらうことにしよう。君と同じ考えの者に頼んで判定してもらうとすれば、すでに君と同じ考えなのだ、どうして判定できようか。私と同じ考えの者に判定してもらうとすれば、すでに私と同じ考えなのだ、どうして判定できよう。

(中略)

このように、変転するただの音でしかない世間の論争は、それが是であるか非であるかを互いに他に依存しあっているけれども、実は依存しあっていないのと変わらないのだ。そのような世間の是非は、区別を均斉化する天倪(自然の磨り潰し作用)でもって融和し、文目も分かぬ曼衍(のっぺらぼうの状態)に従わせるがよい。こうすれば、万物と一体になって天寿を全うすることも不可能ではなくなるだろう。

『荘子 全現代語訳(上)』池田知久訳

んー?「寒い」とか「暑い」とか言って袖をまくったり伸ばしたりしている俺は実は融和できるってこと? この場合の融和ってなんだ? 俺の体温と外気温が融和して真ん中ぐらいの温度で一体となったら俺は低体温症で死にませんか? 冬が来た瞬間に即死するのが「万物と一体になり天寿を全う」したということになる? 荘子は寒がりのおじさんに厳しすぎやしないか。

荘子の言う「聖人」は個人には到底たどり着けないような超越者の視点を持っていて、それと限定された一個人が共通点を持ち得ることが当然の前提であるかのように(キミも超越者になれる!)に語られてるのが難しく感じる。