老子と荘子の思想をひっくるめて「老荘思想」などと呼ぶ。その政治哲学の核は「よけいなことをしないで、人々がそれぞれの分を守っていれば世の中は自然と治まるものだ」という発想にあるというのが俺の理解だが、これがなかなか俺の頭の中でつながらない。
「人々がそれぞれの分を守る」ということと「世の中が治まる」ということが全然接続されないように思われるのが一つと、もう一つは「それぞれの分」とは何か? という話がよくわからない。
馬は、蹄で霜や雪を践むことができるし、毛で風や寒さを禦ぐことができる。また、草を食み水を飲み、足を振り上げて跳ね回る。これが馬の本当の生まれつきというものである。
(中略)
また、陶工も「わしは上手に粘土を捏ねることができる。」と言い、円い器を作っては規にぴたりと合わせ、四角い器を作っては矩にぴたりと合わせた。大工も「わしは上手に木を細工することができる。」と言い、曲がった細工は鉤にぴたりと合わせて作り、真っ直ぐな細工は縄にぴたりと合わせて作った。しかし、そもそも粘土や木の生まれつきは、規・矩、鉤・縄にぴたりと合いたいなどと願っているであろうか。にもかかわらず、いつの時代でも人々は、「伯楽は馬の調教の名人、陶工・大工は粘土・木の細工の上手。」と言って誉めそやす。天下を治める者の過ちも、これと同じように破壊的なものである。
私の考えるところ、立派に天下を治める者は、そんなやり方はしない。そもそも人々には常に変わらぬ生まれつきがある。それはただ、着物を織って着、田畑を耕して食う、というだけのことであって、これを人類共通の徳(自然の持ち前)と呼ぶ。
『荘子 全現代語訳(上)』池田知久訳
そこは全裸じゃないのか。
まぁ、陶工や大工の話は政治の比喩であって、直接に陶工や大工を批判しているわけではなかろうという解釈はできるが、しかしその比喩の直後に「着物を織って着」ることは人類の自然の持ち前だというのはわかりにくい。こういうわかりにくさが老荘思想全体に漂っているように思われる。
ところで俺がこの部分を引用したのは、人が全裸になる話(未遂)やちんちんやうんこの話が出てくると嬉しくなって付箋を貼ってしまうからなのだが、この俺の性向は人としての「自然の持ち前」なのか、「作為」なのか。自然の持ち前だとするならばこの持ち前を守っていれば世の中が治まるようになるのか。作為ならば俺はどのような意向でこんな作為をしているのか。
自分のことさえわからなくなるのに、これで世間のことがわかるようになったり、物事がうまく運ぶようになるのか。甚だ不安にならざるを得ない。
