部屋と広末涼子と本と私

近所の古本屋が本当に素晴らしくて、行くと買いたい本を見つけてしまう。買うペースに読むペースが追いつかないし、部屋が狭くなる一方なのでもう行きたくないんだけど、手持ち無沙汰になるとつい覗きに行ってしまう。で、今回も100円均一棚で広末涼子『ヒロスエの思考地図』という本を見つけて買ってしまった。

広末涼子が愛読しているという哲学者たちの言葉を引用し、それに著者の随筆をつなげていくというスタイルの本。出版が2022年で、一連の騒動が始まったのが2023年だというから、愛や職業生活や家庭について触れる随筆には邪な意識が惹起されてしまうのだが(その邪な意識がなければこの本を買うことも読むこともなかったとは思うが)、芸能界という、文字通り生き馬の目を抜いていてもおかしくない世界でトップランナーを続けてきた著者の実感がこもった文章は力強い。

あなたが100メートルを14秒台で走りたい! と思ったとしましょう。 ではまず何から始めるか? 今の自分のタイムを測る。

次に何をするか? もっと速く走るすべを知るために、自分のフォームの確認をするべく、動画を撮る。自分の走り方の特徴を知る。

重心が前にいってしまうクセがあるなとわかったら、腹筋背筋が足りないからだという原因がわかる。原因がわかったら、それを取り除くために筋トレをして筋力をつける。

これもクリアできたら、次の課題が見えてきます。

「今度は脚力もつけなきゃ。よし、腿あげをしよう!」

「スタートが悪いのかも? スターティングの練習をしよう」

フィジカルの強化と共に、技術的な面の向上に焦点を当てて、スキルアップしていく。

今度は、きっと本番の緊張やプレッシャーに負けないメンタルを鍛える訓練に入る。イメージトレーニングも大切。あるいは自分の身体や自分の現時点での記録をよく知り、自分の心とも対話する。

こうした具体的な行動によって、目標を実現できる自分へと進化を遂げることになります。

こういう文章が抽象的で観念的な文章に陥らず、一つ一つ具体的な事例として提示されることに「努力の実感」が感じられる。スポーツ少女だったという本人の弁ともブレがないし、そっくりそのまま「演技の稽古」の比喩としても読めるだろう。一般ピープルの目から見れば軽やかにキャリアを駆け上っていったかのように思えるけど、そんなわけがない。チャンスが巡ってくるかは運次第かも知れないが、巡ってきたチャンスを掴み取るには血のにじむ努力を必要とするということが文章の端々からビンビン伝わってくる。

一方で、引用されている哲学者たちの言葉の解釈には首をひねる点も多い。

例えばデカルトの「我思う、故に我在り」を引いて、「私とは何だろうか?」「他者があってこその私である」という文章につなげていくんだけれど、引用元の『方法序説』を読んで、上の言葉を「私とは何だろうか?」という問いにつなげられるとは俺には思えない。

デカルトは全ての「知識」が確実でない、疑わしいものだと喝破した上で、しかし「今私が疑っているという状況を疑うことはできない」と「懐疑」の優位を宣言したのである。ここの「私」は「疑う主体」として便宜的に用いられているのであって、(それが意味をなすのであれば)「他者」でも「サボテン」でも「世界」でも「神」でも入れ替え可能な概念である。「私とは何か」という問いを差し向ける特殊な対象ではない。

ということを書いている途中で気付いたんだけど、もしかして俺が今、『荘子』を予備知識なしの手ぶらで読みながら「よくわからん」と言っている一連の日記も、広末涼子がこの本でやっていることと同じなのではないか? 中国思想を深く勉強した人から見れば、「そんな解釈になるわけねーだろ」と思われても当然なのではないか?

うわっ……俺と広末涼子、同格……?(任意の人物が両手を口元に当てて驚愕している図)

人生には意外な出会いが待っているものだ。俺もあの時、行くべきじゃないと思いながら古本屋に行かなければ、知らず知らずの内に自分が広末涼子と並んでいたことに気付くこともなかった。チャンスが巡ってくるかは運次第かも知れないが、巡ってきたチャンスを掴み取るには本の整理がつかなくなる、部屋が一層狭くなるというデメリットを甘受しなければならないのだ。