俺は「スマホ歩き者は憲法で保証された生存権を自ら放棄している」とインターネットにカキコしてしまうぐらいの反スマホ歩き最右翼の自覚があるが、今日都心のど真ん中の交差点で信号待ちをしていたら、向かいでゴリゴリにスマホをいじっている外国人観光客とおぼしき大荷物の人がいた。信号が青になり、そのままスマホ歩きで向かってきて気付いたのだが、荷物に赤字に白十字のタグ、いわゆる「ヘルプマーク」を付けていて、おおっと心の中でのけぞった。
(ヘルプマークは国内の施策だと思うので、外国人観光客とおぼしき人が付けているのがやや疑問ではあるのだが、いずれにしても)周囲に配慮を求めるなら、自分だって「歩きながらスマホをいじらない」ぐらいの配慮は必要なのではないか、と思う一方で、ここまで堂々と生の充溢を主張されると、堂々とした態度に弱い俺は道を譲ってしまう。体調が優れなくても旅行したって良いし、楽しいものを見聞きしながら道を歩いたっていい。そういうことに寛容な世の中であるべきだ。それは確かにそうだ。
仏教学者の増谷文雄と哲学者の梅原猛は、対談の中で、孔子、ソクラテス、ブッダ・ゴータマといったおよそ2500年前の思想家たちが同時期に起こってきた不可解な事実について、ヤスパースの説を引きながらこう語り合っている。
増谷 つまり紀元前五世紀、六世紀、あるいはもっとさかのぼって七世紀、あの数世紀の時期は、人類の精神史の中でたいへんな時代であったということがだんだんわかってきた。それはブッダだけのことではないのであって、たとえば、ソクラテスは紀元前四七〇年か四六九年に生まれて、紀元前三九九年に死んでおります。ブッダの生存年代は確定されていませんが、わたしの考え方で申せば、ブッダもまたソクラテスの同時代人であったといって、すこしもさしつかえないと思うんです。また、孔子の生まれたのは紀元前五五二年、もしくは五五三年で、その死んだのは四七九年ですね。そういう事実を考えてみていると、これはインドだけの問題ではない。ギリシアでも中国でもそうなんで、たいへんな世紀であったということなんです。
梅原 先生とおなじようなことを哲学者のヤスペルスが言っております。ヤスペルスは先生のおっしゃった三人に、イエス・キリストの先駆者と考えられる第二イザヤを加えて、だいたい紀元前八世紀から三世紀にかけての時代にその後の世界の精神を指導した聖者が出たとして、その時期を枢軸時代だと彼は言っています。
増谷 枢軸時代ですか。
梅原 軸ですね。なんか人類の歴史のかなめになっているという意味です。そこから次の時代の精神的できごとが出発する。そういう時代だという意味です。先生がこの本(第一部)で書かれていますように、そのとき都市文明が発達して、物質文明の長足な進歩があった。物質文明が長足に進歩したけれども、それに人類がまだ精神的についていけない。そのような、新しい物質的な文明におかれた人類には、精神的な原理が必要だった。その必要が釈迦(ブッダ)とか、ソクラテスとか、孔子とか、第二イザヤだとかいう偉大な思想家を生んだ。それからずっと十九世紀まで人類はだいたいそういう原理でやってきているというわけです。
増谷文雄・梅原猛『仏教の思想 1 知恵と慈悲』角川ソフィア文庫
すなわち、都市化が進んだ時代に、育ちも文化も違っているような異質な人々が集まって暮らすようになり、互いに切磋琢磨して技術の進歩は成ったものの、「異質な考え方」を総合するような思想は一朝一夕には成り立たなかった。そこで歴史の荒波に揉まれても崩れなかった、卓抜した思想と思想家の名前が歴史に残ることになった。ということだろう。俺がおののくようなスマホ歩き者と出会ったのも、都心のど真ん中という「異質な人々」が集まる空間だったからだ。
俺もスマホ歩き全盛時代という歴史の荒波に呪詛を投げかけるだけではなく、しっかりと腰を据えてスマホ歩き者を観察し、思索すべき時が来ているのかも知れない。スマホ歩き者はスマホを見てるので、俺との「異質さ」を意識することもなかろうが。
