詩心がなさすぎるなと思う。昔から「詩」に対する感性が弱すぎる。詩を読んでもザルで水をすくおうとするように、スルスルと通り過ぎていくだけだ。俳句や短歌などの短詩であれば時々引っかかりそうな時があるので、ここから展開できないかと長年悪戦苦闘しているが、うまくいっていない。この歳でもダメならダメなんだろうという気もしている。
しかし、詩心があるなら、屁理屈の心・屁理心(へりこころ)もあるだろう。俺は会社では技術に明るい人間という扱いを受けていて、その度に否定しているが理解されていない。俺が用いているのは屁理屈なのだ。
俺の勤務する業界では技術を用いようとすると金がかかる。そのことをきちんと理解してくれて金を払ってくれるお客さんに対しては正面から技術をぶつければよいのだが、そうでない場合、「事態の解決」よりも「お客さん側の担当者の納得」を引き出すことの方が重要である。一旦納得を引き出して事態に区切りをつけた上で、次の展開として技術を持ち出すこともあるが、ともかく「納得」を引き出すことでこれまでのステップを確定させて、新しいステップを相談する。その上で「屁理屈」を繰り出す能力が必要で、それを磨くには常日頃から屁理屈をこねる心理的傾向、屁理心が必要なのである。
しかし、屁理屈を相手に「屁理屈」と思わせてはならない。そう理解された途端に相手は心を閉ざしてしまい、「納得」から遠ざかってしまうし、「心の冷たい人間」と思われてしまうと、人間組織から放逐されかねない。屁理屈はいざという時に鞘を抜き払って用いる伝家の宝刀なのであって、屁理心は表から見えないように、フタをして生きなければならない。
これ即ち、屁理こプターの精神である。