コワーキングスペースで読書環境が整い、バリバリ本が読み進んでいるし、積読も減らせるぞと鼻息を荒くしていたのだが。
黒人の性格については、黒人はまったくの野生の中にある自然的な人間を代表していると言わなければならない。手に負えない荒々しさが黒人の性格である。黒人を正しく理解しようとするならば、〔神的なものへの〕畏怖や倫理、あらゆる人間的なもの、感情と言われるあらゆるものを捨てなければならない。黒色人種の状態を考察すると、そこには人間的なものに響き合うものは何も見いだせない。
G.W.F.ヘーゲル(松田純 訳)『歴史哲学最終講義』
あ、あまりにも差別的! と鼻息荒くなってしまい、本屋に駆け込んで、以前からほしいものリストに入れっぱなしにしていた河野哲也『アフリカ哲学全史』を買ってきてしまった。本末が転倒している。
だいたい『歴史哲学最終講義』も「環境整ったから読めるだろ」と思ってこないだ買ってきた新刊(1/13発売)だし。たしかに読み進められてはいるが、積読が減るどころか本が増えている。
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それはそれとして、19世紀初頭のヨーロッパ人という限界を踏まえたとしても、「世界史を俯瞰して、統一的で普遍的な哲学を構想する」なんていう大それたミッションに取り組もうという野望には驚嘆する。
現代ならそんなミッションを口にすることすらはばかられるだろう。探求が進み、世界のディティールがあらわになるにつれ、統一的な哲学を考えることの難しさが強調されてくる。賢い人間ほど「大きなもの」より「細かいもの」に注力した方がメリットがあると考えるだろうな。(そして哲学はだいたい賢い人間が取り組もうとするものだ)
しかしまぁ、みんな口にしないだけで、統一的で普遍的な思想に関心あると思うんだよね。今現在、世界情勢が信じられないぐらい荒れているのを見ると、同時代の人間として居住まいを正すと同時に「後世の歴史教科書で現代ってどんな風に描かれるんだろうか?」という興味が立ち上がってしまう。
別に「今どのように振る舞うのが正解か?」を知りたいわけではない。ここで選択を間違えたことで結果的に野垂れ死ぬことになったとしても、それはそれで仕方がない。自分の幸福や生き様の問題とは別に、自分そのものから遊離した視点からの「自分や世界の標本は、後にどのようにまとめられるのか?」ということに関心がある。死後の世界があるかどうかは知らないが、あるとしたら「映像の世紀・俺」をじっくり観てみたい。
俺が日記と称してこのブログで書き綴っていることも、歴史哲学の探求なのかも知れん。ヘーゲルほどの知力がないだけで、目指す方向は似ているもかも。うんこ。
俺はこういうちょっと真面目っぽい方向に文章が行きかかったときに「うんこ」とか書いてふざけて全てを台無しにしたくなる欲望を抱えている。いつもは心の中で思ってるだけだけど、今日は俺の歴史哲学のために「うんこ」って書く。

