徳とは何だろうか

1日長丁場になるので、先に駅のトイレに行っておくことにした。個室エリア(ウンコーナー)がいっぱいだったので並んでたら、後ろからコントみたいにお腹が痛い人がやってきた。お腹を抑えて内股になり、ハニワみたいに口を開け、よろよろと俺が並んでるのを通り過ぎて個室の扉をノックする。無情に返ってくるノック音。あきらめた彼は俺の後ろに並び直した。俺が認識できてなかったわけではなく、一刻も早くダムを放流させなければ水門が決壊する危険があり、下流に土石流を放射、彼の身の回りの社会をめちゃくちゃしてしまうという危機感がそうさせたらしい。

少しして(ダム保守員の彼からしたら何時間に感じられただろうか)個室が1つ空いた。それほどの貯水量でなかった俺は、後ろの彼に「お先にどうぞ」とうながした。彼は苦悶の表情で声にならない声を漏らしながら(礼を言ったのかは定かでない)ゆっくりと個室に吸い込まれて行った。駆け込んだら決壊しかねないほど苛まれていたのだろう。

ここで俺は問いたい。徳とは何だろうか。取引を持ちかけて失敗したら容赦なく爆弾を降らせるような国を同盟に持つ民として、どんな顔をして徳について語れば良いだろうか。もちろんWhatを問うことも重要だ。しかし一貫性がないからと言って、一面のgoodnessを捨て去ることが果たして「徳」にかなうだろうか。徳とは日々の実践の中でも磨かれるものではないだろうか。間違いを犯しながら過ちを正しながら、時には後戻りしながら少しずつ前進するものではないか。俺は完全無欠の道徳人間ではない。孔子においてすら、徳は実践が難しいものだった。だから問う価値があったし、実践の中でも追求されていった。

逆に完全無欠の「徳」概念が出来上がったとしても、それが実践されなければ「徳」と呼べるだろうか。否。断じて否。俺は主張したい。恐れずに徳を実践せよ。それが自分故人の利益にならなくても何だというのか。内なる自己の反逆が抑えきれなくなったら、進んで安らぎの場を提供してもらえる社会になってくれるなら、それが最高の報酬ではないか。

俺も神を呪いながら行列に並んだことは何度もある。創造主たる観念上の神を呪っても、被造物たる実在の人間を信じられる世の中になってくれるなら、神も笑って許してくれるのではないか。俺はその程度には超越的存在を尊崇している。