マッチョイズムを反省するところまで届かない

打ちのめされるようなことがあって、昼休みはメシも食わずに公園のベンチで呆然としていたのだけれど、初夏のポカポカ陽気で気分が沈みすぎなくて助かる。逆に冬の間は何もなくても「死」と思うのだが。

俺の根っこにはおそらくマッチョイズムが根付いている。マッチョイズムの弱点はマッスルがブチ折れた時の立て直しが難しいということだ。マッチョイズムは敗北を認めないのだから立て直しもなしえない。俺は不徹底なマッチョイストなので敗北は認める。しかし立て直しが弱いというマッチョイストの弱点だけはしっかり保持している。

読書は強制的に気分を変えるツールとしては良い。マッチョイストの本棚(及び床)にはマッチョイズム的な本が並びがちだが、古本市で安く買ったまま積んでいた、暁烏敏『歎異抄講話』が目に入った。どこまでも有限でしかない、個人の力の限界点において、危険なレベルで絶対他力を主張する『歎異抄』こそ今の俺にふさわしい。

この「歎異抄」は、宗教を、利欲的社会の維持や、掠奪的国家の進歩や、利己的個人の助勢としての機械に使うというような人にはとうてい解せられないのである。

(中略)

今日私どもを種々批評し嘲弄する人でも、一年二年または数年の後には、私どもの信仰と同じいところに来るにちがいないと思えば末たのもしいことである。今日いくら私どもを罵り『歎異抄』の精神を嫌う人でも、まじめに人生問題を思考し、着実に宗教の修養に心がけたならば、必ず一度は『歎異抄』に来たらねばならぬことは火をみるより明らかなことである。

み、見透かされていた。