午前中、洗濯機を回しながら『歎異抄講話』を読んでて、「生きていく中でどうしても避けることの出来ない、身から出た汚れを、阿弥陀如来(洗濯機)の力でお救いいただく」みたいなことを考えてた。
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今日ではロスチャイルド、カーネギー、モルガンなどといえば、誰も知るところの財産家であるが、この財産家の三百年の未来をそうぞうしてみたならば果してどうであろうか、百年の過去を回想してみたならばどうであろうか。ああそらごとである、たわごとである、浮雲のごとしである、泡沫のごとしである。
(中略)
この間にあってただ一つあてになるものは如来のお慈悲である。
そうだぞ! だからロスチャイルド陰謀論に付き合ってる暇なんか我々凡人にはないのだ! 「南無阿弥陀仏」の六字だけを唱えて進め! みたいなことを思ってしまうのだが。
そのあてにならぬもののあてになり、力となってくださるる阿弥陀如来は、ただ一つの誠である。この真実の御力を信じ御光に照らされていったならば、ぬすむ者でも、殺す者でも、火つけする者でも、酒を呑むものでも、姦淫する者でも、徳者でも、仁者でも、悪人でも、愚人でも、ことごとく仏の真実によって大安心ができるということをていねいね教示したのがこの『歎異抄』である。
とまで言われてしまうと、別の方向でキマってません? と凡俗の俺なんかは思ってしまう。
たしかに、人生、キマりでもしないと一歩も先に進めないという局面はあるものだけど。公衆トイレの列に並びながら必死に便意を我慢してる時とかね。「漏れたって救いはあるのだ」と思ったら楽になれるのかな。そう思ったら最後、そのまま漏らしてしまいそうだよな。公衆トイレでみんなが阿弥陀の慈悲におすがりした瞬間、地獄が顕現するんじゃないのかな?