仏説を前に人生の岐路を反省することの難しさについて

今日は空き時間に仏教の本を読んでたんだけど、インターネットでは「親の葬式よりもアイドルのライブを優先しようとした人」の話が話題になってたらしい。

アイドルのライブを優先しちゃうのは「価値観」としか言いようがないが、これが悟った人(ブッダ)の来訪だったらどうなるか。

原始仏教の「自分の力で修行しなさい」系ブッダだったら、「こっち来るより親をきちんと見送ってから、修行しに来なさいよ、後で相手してやるから」って言うだろうけど、大乗仏教の「超パワーで凡俗をお救いくださる」系の阿弥陀仏とかだったら、葬式なんかやってる場合じゃないっていうか、あっちから親を迎えに来てくださった「来迎」なんだから、むしろそちらにしっかり対処しなけりゃ罰当たりということになりかねない。

しかし「ブッダ来たる!」と言われて葬式を放り出して行ったら、エル・某ターレがいるという可能性もあるから、これはなかなかの賭けである。もちろんエル・某ターレの熱心な信奉者は大喜びするだろうが、そうでなければ……その場で親族全員改心でもしない限り、なかなかありがたみを感じ取ることは難しいだろう。

更に複雑なのは、世間的にはエル・某ターレは死去したことになっているので、もし再臨したということになれば、その力を信じる信じないに関わらず、これはこれで歴史の大きな1ページを目撃することになってしまうからだ。だから俺が簡単に「エル・某ターレの可能性もあるから、親の葬式をおっぽり出すな」とも言い難いのである。

俺のような凡俗には、お釈迦様のような透徹した目で物事の軽重をはかることは難しい。他人の人生の岐路において、代わりに判断してあげるようなことはとてもできない。

ただ1つだけ、確実に言えることがある。

親の葬式中に「ブッダ来たる!」と見知らぬ声が響き、すぐに会場を出るようにうながされた場合は、香典泥棒によく注意すべきということだ。